統合のイメージ~英仏の違い~

近世以降のヨーロッパの歴史は、基本的にイギリスとフランスの間の覇権争いの歴史と言っても過言ではないだろう。もちろん英国は大陸諸国の間に展開される争いに対し、極力balancerとしての立場を保とうとしたし、第一次、二次世界大戦において、両国は協商国・連合国として手を組んで戦ったけれど、植民地の争奪戦に象徴されるように、英仏の間には常に一定の緊張が存在したのである。こうした両国の間にあった緊張感は、イギリスがEUの一員となった今日も、本質的には失われていない。

そもそも英国には同じアングロサクソンを源とし、英語を共通の言語とするアメリカとの深い結びつきがある。また、大英帝国以来のCommonwealth(英連邦)諸国との関係も有している。だから、20世紀のイギリスの外交政策は長い間、まず対アメリカ、次いで対コモンウェルスが重視され、極端に言ってしまえば、大陸諸国との関係はその後の課題だった。

ヨーロッパ大陸と一定の距離を保ってきたイギリスも、第二次大戦の後は相対的な自国の国力の低下と植民地の独立などによって、そうした態度を貫くことはできなくなった。1973年、英国はEEC(欧州経済共同体:当時)に加盟し、大陸における経済の一体化に参加する道へ大きく舵を切った。しかし、当初英国の考えていた欧州の一体化とは関税同盟のように、国家が自らの主権を維持したまま共通の経済政策に参加するというイメージのもので、フランスなどEECの原加盟国が考えていた、外交などの一体化まで視野に入れた構想とは異質だった。

メディアに関する政策の分野でも、両国のスタンスは異なっていた。イギリスは英語という資源を使って、世界商品としての映像ソフトを制作することができたのに対し、フランスなど大陸諸国はそうしたパワーを必ずしも有しておらず、1970年代80年代以降、アメリカからの大量のソフトの流入という事態に直面していた。したがって、後者の方が域外からの映像ソフトの流入などに関してずっと厳しい姿勢を示してきたのである。イギリスとフランスのそうしたスタンスの相違は今も続いており、それは欧州の共同体が共通のメディア・放送政策を打ち出すにあたっての大きな障害となっている。

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イギリスのEEC加盟以降、欧州ではジグザグを繰り返しながら統合が進行したが、イギリスと大陸諸国との考え方の溝は依然として埋まっていない。イギリスのキャメロン首相は今年1月、「2015年に行われる予定の総選挙で与党保守党が勝利した場合、イギリスがEU(欧州連合)にとどまるかどうかを問う国民投票を実施する」という考えをあらためて表明した。

その中でキャメロン首相は、EU側とイギリスがヨーロッパ共同体に加盟した時の条件について再交渉を行った上で、英国がEUに残るか、それとも離脱するかを投票で選ぶことにしたいとも述べている。つまり、EUとの再交渉の結果次第では国民投票を行わない可能性もあるという含みを残したのだが、イギリス以外のEU加盟国がそのように、イギリスだけを特別扱いすることを認めるとは考えにくいだろう。そうなるとイギリスは近い将来、EU残留を問う国民投票を、本当に実施する可能性が高いということになる。先日、キャメロン首相と会談したフランスのオランド大統領は、EUから距離を置こうとする、こうしたイギリスの姿勢に強い懸念を表明したと伝えられている。

このように遅れてEEC(当時)に加盟したイギリスは、原加盟国との間で不協和音をもたらしがちで、英語でawkward partner(ぎごちないパートナー)とかTrojan Horse(トロイの木馬)とか言って、揶揄されることがよくある。トロイの木馬とは、「イギリスがアメリカとの言語や歴史的なつながりを使って、アングロサクソンの利益を欧州全域に持ち込もうとしている」といったような意味である。また、フランスとイギリスの関係をfrère ennemis(敵対的兄弟)と呼んだ学者もいる。

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ただ歴史を振り返ってみると、イギリスのEEC(当時)への参加が遅れたのは、英国のせいばかりではなかった。フランスは1961年、63年と英国のEEC(当時)加盟申請を、二度までも拒否しているのである。

63年、当時のドゴール大統領は、イギリスはヨーロッパ共通のvocation(使命、天命)を受け入れていないと指摘して、英国のEEC加盟に対し拒否権を行使した。

「イギリスは、世界中に展開している交易や商品や、遠くの国々との結びつきによって成り立っている島国であり海洋国家である。そういうイギリスを、どうして欧州の共同市場に一体化することなどできようか」

1958年から69年まで続くドゴール大統領の治世を特徴づけるのは、フランスの栄光の追求とアメリカに従属しない独自外交の展開だった。イギリスのEEC加盟を拒否したのはそうした姿勢のあらわれだが、1966年にはなんとNATO(北大西洋条約機構)を脱退し、本部をそれまであったパリからブリュッセルへと「駆逐」したのである。

当時のフランスの考えは、ヨーロッパの統合によって米ソ以外の第三軸を形成し、世界に影響を及ぼしていこうというものだった。そのために「統合」というカードを使おうとドゴールは考えたのである。そしてその頃のフランス人にとって、ヨーロッパの統合や一体化とは、フランスがヨーロッパ全域に拡大していくくらいのイメージでしかなかったのかもしれない。

しかしその後の統合の進展は、フランスの目論見を裏切るものとなった。1980年代、ヨーロッパ統合のめざしたのは何よりも「一体化」だった。1989年に制定され、欧州の放送の世界から国境というものを取り去ったEC(当時)の「国境なきテレビ指令」は、そうした姿勢を現実のものとした施策の典型だろう。しかし90年代以降、ヨーロッパの動きを特徴づけているのは性急な一体化の追求というより、「多様性こそヨーロッパをヨーロッパたらしめるものだ」という考え方となりつつある。現在のEU(欧州連合)は、フランスが全欧州に拡大したようなものでは全くない。

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それにしても、1960年代の全盛期のドゴールの言動を振り返ると、政治家あるいは政治的人間というのはすごい存在だとあらためて思う。第二次世界大戦中、ドゴールはフランスを逃れ、イギリスに移ってそこで臨時政府「自由フランス」を組織した。BBCの国際放送を通して、本国に暮らすフランス人たちに、ドイツに対する抵抗を呼び掛けたのは、あまりに有名な話である。実際にフランス本国でどれだけの数の人間がその演説を聞いたかは定かではないが、彼はロンドンからの電波を通じて祖国の人々に訴えたことを、戦後、自身の神話として最大限活用したのである。1968年のいわゆる5月革命の時、ドゴールはテレビではなくラジオを通して国民に呼び掛けたが、それには大戦中、自分がロンドンから行ったラジオ演説のことを国民に想起してもらおうという狙いがあったと言われている。

第二次大戦中、イギリスの首相だったチャーチルは、フランスから逃れてきたドゴールのあまりの尊大さに閉口したとも伝えられている。しかしチャーチルにとって、唯一無二の目標はナチスドイツの打倒だったから、彼はドゴールの態度には目をつむった。アメリカも臨時政府の首班の首をすげ替えることを画策したというが、結局それを実行に移すことはなかった。しかし、アメリカの計画を察知したドゴールは、後年に至るまでそのことを快く思っていなかったという。

第二次大戦中、ドゴールがイギリスやアメリカに対して、様々な感情を抱いたのは確かだろうが、自分がいちばん苦しい時に曲がりなりにもお世話になった国に対して、後年EECへの加盟を拒否したり、NATOから飛び出したり、政治家というのは随分思い切ったことができるものだな、と素朴に感心してしまう。

昔、あるアメリカの学者とヨーロッパの戦後史について話していて、話題がフランスのNATO脱退に及んだ時、その人の口から、「フランスは戦争中誰に助けてもらったと思っているんだ」という言葉が飛び出したことがある。大戦中にアメリカの兵士たちがフランス国内で流したおびただしい血のことを思えば、アメリカ人のそうした反応には無理からぬものがあっただろう。しかし政治家にとっては、そんな感想は一片の感傷にすぎないのだろう。現実の政治の世界には、凡人の感傷を許さない冷厳な現実があり、冷酷なまでの判断があるということなのだろう。

東京の下町の生まれだった私の祖母は、小さかった私に「人様から受けた御恩は死んでも忘れちゃいけないよ。人にした親切はすぐに忘れなければいけないよ」とよく言っていた。ドゴールの行動を見ていると、自分は逆立ちしても政治家にはなれないなと思う。最後は、英仏両国の統合に関するイメージの話から大きく脱線してしまった。

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