メロディーの喪失?

あけましておめでとうございます。皆様、どのように新年を迎えられたでしょうか。御親戚やお友達と集まって、楽しい時間を過ごされた方も多いことでしょう。私は先輩に誘われて、新年を迎えるパーティーに参加させていただきました。

「パーティーの最大のご馳走は会話だ」と言いますが、私もせっかくの機会でしたので、ふだんお会いする機会のない方々と積極的に話しました。中でも、現代音楽を積極的に演奏されている新進気鋭のピアニストの方とお目にかかったので、前から専門家に一度聞いてみたかったことを質問してみました。それは「現代の音楽家は『メロディーの喪失』ということをどのように感じているのか」ということです。

コンサートに行くと、現代音楽の曲が掛かることも少なくありませんが、観客の反応はいまいちで、その後に演奏される3Bなどの古典を待って、手持無沙汰で(あるいは義理で)聴いているという感じのことが少なくありません。

観客が現代音楽に馴染めないと思われる最大の原因は、「そこにメロディーが感じられない、感じ取りにくい」ということではないでしょうか。パーティーで会った音楽家に、私は現代の音楽家はこの問題をどう思うか、訊ねてみました。また、「古典音楽を演奏する人の中には、自分が作曲家として作曲する時は、メロディーがあまり感じられない音楽を作る人もいる。その人はそれらふたつの要素を自分の中に矛盾なく併存させているのか」ということも質問してみました。

私の問いに対してピアニストは、「現代音楽にメロディーがなくなっているとは思わない。それはメロディーとはどういうものかという定義や、受け取り方の問題なのではないか。バッハやベートーヴェンの時代だって、彼等は『どうしてこんな余計な音のくっついた音楽を・・』と言われていたではないか」と話していました。また、「古典音楽の演奏家にして現代音楽の作曲家」という人も、上記のような理由から、自分の中に矛盾は感じていないのではないかとも語ってくれました。

なるほど。音楽の専門家からするとそういうことになるのでしょうが、アマチュアからすると、なかなか100パーセント納得するのが難しい説明でした。文学も絵画も音楽も映画も放送も、それぞれのジャンルは、それぞれでなければ表現できないものを表現していけばいい、と私は素朴に考えています。私はべートーヴェンが好きですが、文学に音を付けたという印象がなくはない晩年の音楽より、メロディーを存分に発揮し、音楽でなければ実現できないものを定着させた中期の作品の方を好みます。

年越しのパーティーで取り上げるには理屈っぽすぎる話だったかもしれません。

カテゴリー: NYの日系放送局「テレビジャパン」時代のブログ パーマリンク