創作『その年の冬』(1992年作)

その年の冬

1992年作 河村 雅隆

(一)

その年の冬は例年に較べて特に寒気が厳しかった。足温器を入れただけの北向きの小さな部屋で、夜遅くまで参考書やノートを広げていると、正道は身体が芯の方まで、少しずつ凍っていくような気がした。部屋には石油ストーブも置かれていたが、それを点けると部屋の空気だけでなく自分の頭の中まで濁ってくるような気がして、彼はそれには滅多に火を入れなかった。ただ疲れてくると、湯を沸かすだけのためにそのスイッチをひねった。そして、本棚の真ん中に置いておいたインスタントコーヒーを取りだして湯を注ぎ、湯気が狭い部屋の中を満たしていく様をぼんやりと眺めるのだった。

時々彼は台所から鍋を持ってきて、作った飲物をもう一度温めてみることもあった。そうするとコーヒーの味がずっと良くなると、深夜放送で言っているのを聴いたことがあったからだ。しかしそんなことをしてもしなくても、その味に何の違いがあるとは思えなかった。ただ疲れた頭には、湯気が部屋を満たしていく様を見るのが心地良かっただけなのだ。そして、砂糖を入れないで飲むコーヒーの味には、自分が否応なく大人の世界に足を踏み入れつつあるのだと感じさせる何かがあった。

受験勉強をしていて眠くなった時の対策というのが、その日、本屋でもらってきた高校生向けの新聞に載っていた。「眠くなった時、こめかみにサロメチールを塗ると最高に効きます・・・」。今度これも試してみようか。

コーヒーの湯気にも見倦きてラジオのスイッチを入れてみた。午前一時に近く、ニッポン放送のオールナイトニッポンがまもなく始まる時間だった。その日は木曜の深夜だったから、零時半からはTBSでは野沢那智と白石冬美のパック・イン・ミュージックが始まっている筈だったが、近頃正道はもうそのお喋りには熱を入れて耳を傾けなかった。いや、面白いだけに勉強に集中出来なくなってしまうから、聴くのを避けていたというべきだろう。このところ、小説にすら目を通すことすら避けてきたことが、何の意味もなくなってしまう。

それでも何となくチューナーを廻していたら、突然甲高い声が耳に飛び込んできた。「日本における学生、労働者の英雄的革命運動は一段と勢いを増し、大衆の熱狂的な支持を獲得しつつあります・・・」。北京放送の日本語放送だった。

前の年、昭和43年の秋から始まった学生運動の勢いは、冬を迎えてますますその勢いを加速させていた。正道自身はまだ高校2年で今年の試験には直接関係がなかったが、二つ上の兄が一浪中だったから、彼にとってこの問題はとても他人事とは思えなかった。マスコミは連日、日大や東大での「大衆団交」の模様を詳しく伝えており、このままでは入試中止も必至の情勢となってきていた。

兄は東大を受けるつもりでいるようだったから、もし入試が中止になれば、一年間の浪人生活が無駄になってしまう。そして今、大学の中では、一年前に入学した同級生たちが入試粉砕を叫んで暴れ廻っているのだった。

「造反有理」というのが学生たちのスローガンだった。荒れ狂っている文化大革命の中で紅衛兵たちの掲げた合言葉がこれだった。北京放送を聞きながら、正道はその日の昼休み、佐多から聞いた話を思い出していた。

「毛沢東っていうのはあと千年、二千年たったらどういう風に評価されていると君は思う?多分新の王莽という感じに位置づけられているんじゃないかと思うんだが…」

ちょうど授業では前漢・後漢の時代が取り上げられているところだった。佐多はまたこんな風にも言った。

「造反有理か。自分たちが『反』することに理があるというけれど、しかしそもそも生きていくということについては、すべての人間がひとりひとり、自分なりの『理』を持っているんじゃないのか。自分だけに理があって、自分だけが正しいというのは一寸かなわないな」

佐多と正道の話は、何故かヘッセの『車輪の下』の話題になっていった。新聞の日曜版で『世界名作の旅』という連載が始まり、シリーズの一回目にその小説が取り上げられていたからだったろうか。

「あの小説を読んで、俺は恥ずかしくて堪らなかったんだ。何故だって?だって主人公だけが正しくて純粋で、それに対して周りは無理解な俗物ばかりという描き方だろう。こういうのも一寸かなわないね」

ふだん学校で教師と衝突することもある佐多の言葉だっただけに、正道は驚いて彼の顔を見詰めた。佐多の言葉にも昨今の大学情勢が反映しているのだろうか。

「成長とは喪失のことだよ、きっと。最近俺はそんなふうに考えるようになってきた。若いうち自分のことを純粋だと信じている奴等だって、生きていくうちに厭でもそのことに気づかされるんだろう」「今、学生運動をやっている連中も?」「ああ、権力志向としての左翼運動って奴は、特に信用出来ないからな」

どこで覚えてきたのか、佐多はそんな言葉も口にした。正道は毎朝降りる大船駅で、公立高校の生徒が「高校生による自主連帯会議に結集せよ」というビラを配っているのをよく見掛けた。彼等はこれからの人生をどのように生きていくのか。その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

正道の学校は横須賀線の大船駅から山の方向に歩いて20分あまり。カトリックの修道会の経営する中学、高校が続いた男子校だった。彼が入学した昭和39年の夏まで、学校は横須賀の長浦湾に面した場所に設けられていたのだが、そこが自衛隊の潜水艦基地として接収されることになって、校舎も生徒もすべてが大船に移転してきたのだった。正道にとって、中学一年の一学期だけ通った長浦湾ののどかさと、現在自分が過ごしている大船の環境とは、全く別のものに思われてならなかった。そしてそれだけでなく、自分たちを取り巻く社会の環境も、急速に重たさを増してきたように感じられるのだった。

毎朝、正道はギリギリの時間に学校に飛び込むことを繰り返していた。8時20分の始業に間に合うためには、保土ヶ谷駅7時44分発、大船駅8時59分着の横須賀線が最終の電車だった。その電車に乗り遅れたら、正道の学校の隣にある女学校行きのバスに飛び乗るほかなかったのだが、事実上女学生専用となっているその車に乗り込むには、心臓が口から飛び出すかという思いを体験しなければならなかった。

遅刻ということになれば、職員室に行ってイエロー・カードと呼ばれる証明書を受け取らない限り、教室に入ることは許されなかった。それをもらいに行く煩わしさから、正道は学校そのものを休んでしまったことも何回かあった。

結局、夜が遅いから朝も遅くなるという悪循環なのだが、彼にとっては学校の授業はどうでもいいという気がするのだった。受験ということだけを考えれば、大事なのは本番だけだ、だからそれに向けて自分の努力を積み上げていけばそれでいい、というのが彼の考えだった。ある先輩が言った「入試というのは、数ある試験の中でも努力と結果が正比例する例外的な試験だ」という言葉を、彼はそのまま信じることにしていた。

成績のことを言えば、正道のそれは決して悪くはなかったのだが、科目によって大きなばらつきがあった。英語や国語、社会に比べると、理科系の科目がかなり下回っていた。試験で一番差がつくのは数学だから、それをとにかく平均のレベルにまで持っていくというのが当面の目標だった。記憶力には自信があったから、彼は問題の解き方をパターンにして、何でもかんでも覚え込んでいくことにしていた。

しかしそんなことをしていても、彼の頭の中ではいつも同じ問いが繰り返されていた。「一体、生きることに何の意味があるのか。まして生きる過程において、努めるということとは・・・」

夜、短い眠りに入る前、ベッドの中で単語や公式を覚え、また朝、電車に乗り遅れそうになるギリギリまで復習するという作業を、正道は繰り返していた。この方法は、以前ハンガリー出身の神父が記憶のために最適だと言って教えてくれたものだった。しかしそんなことを繰り返しているうち、彼の中には言い様のない空しさが湧いてくるのだった。それは勉強することが厭だとか何だとかいった類のものではなかった。生きていく意味そのものを見出せないままに自分が努め続けているという、自分でも不思議に思えるもどかしさだった。

この先、自分の人生とはこんなふうに生きていくことの繰り返しに過ぎないのだろう。ずっと生きたとしても、今のようなことが何年か何十年か続くだけのことで、自分はずっとこんな気持ちで生きていくほかない・・・。

世の中の体制や年長者や、要するに自分以外のものが悪いと言って、ゲバ棒を振っていられる学生たちが、正道には羨ましかった。彼等は生きていくことの苦しみの原因を、自分以外の第三者に転嫁できる。自分たちが納得しているのならそれでいいのかもしれないが、随分気楽な生き方もあるものだ、と正道は思わざるをえなかった。

その日の朝礼で教頭の日本人の神父がこんなことを話していた。「政治に関心を持つことはいい。しかし、自分自身の考えが成熟してもいないうちに現実の行動に走るのは決して良いことではない」

そんなことは言われるまでもないじゃないか。むしろ自分にとって必要なのは、無茶苦茶に周囲と衝突するようなエネルギーなのかもしれない。正道はそんなふうにさえ考えていた。

しかし周囲には学生運動の嵐に動かされている人間もいた。休憩時間、自席でぼんやりとノートを広げている時だった。クラスの中で、正道は何をしていても放ってもらえるという特権を有していた。彼が近くで本を読んでいようが何をしようが、誰もそれに構ったりすることはなかったし、また彼の方から積極的に話に加わっていくことも多くなかったのだが、そんな正道の耳にも山西のキンキン声が飛び込んできた。

「この前、新宿へ国際反戦デーのデモを見に行ったんだ。催涙弾がバンバン撃たれて、ああいうのを見るとやっぱり権力というのは凄いものだと思ったな」

山西は学生運動をやるために、運動が盛んに行われている国立の大学を選んで進学すると主張しているようだった。

「そういう運動を追求しようというのだったら、そもそも国立大学に進学しようということ自体が矛盾しているんじゃないのか」

誰かがこらえきれなくなったという感じで話に加わってきた。それに対して山西が居丈高に答えていた。「君は何も分かっていない。そもそも帝国大学というのは国家と独占資本に奉仕し続けてきたんだから、その中に入ってそれを解体しようというのは十分に意味のあることなのさ」

軽薄才子といった感じの山西とはこれまでまともに言葉を交わしたことはなかったのだが、自分がこれまで取ってきたその態度を「祝福」していい気分に正道はなっていた。こういう奴は世の中の流れが変わればすぐまた言うことを変えて、前に言っていたことなど忘れ去っていくのだろう。そしてこのタイプの人間は、今大学の中で騒いでいる連中の中にも山ほどいて、「大学解体」などと言っていても、嵐が去ってしまえば、その学校を出たということを最大限利用して生きていくのだ。

正道は山西たちの議論を聞きながら、少し前に読んだ『されどわれらが日々』という小説のことを思い出していた。その小説に出てくる登場人物のひとりは六十年安保で「挫折」した後、学校を卒業して、地味だと思われた鉄道会社に就職する。ところがそこで彼は忽ちにしてエリートとして位置づけられてしまう。というのである。そうした生き方を選んだ人間のことを良心的なインテリとして描く作者の気持ちが、正道には全く理解できなかった。結局、人間は自分のことにしか関心がないのだ。それなら格好いいことなど言わず、自分のエゴを隠さず生きた方がよっぽどいい・・・。

(二)

学校は一学年が180人という小さな所帯だった。その中でこれまで5年間も一緒に暮らしていれば、どの人間がどんな考えの持ち主であるかは大体見当がついた。学校の中はいわば鬱陶しいまでに濃密なコミュニティだった。しかもそこには、男子校という環境が生み出しているに違いない、独特の雰囲気が漂っていた。

学校では午前中、二時限目が終わった後、中間体操という運動の時間が設けられていた。生徒たちは授業を終えると、机の上に衣服を脱ぎ捨てて校庭に出て、ランニングとラジオ体操を行うのだった。学校はこの15分の時間を世紀の体育の授業としてカウントしており、本来の体育の時間は英語や数学の授業に振り替えられているという話だった。

体を動かすことは決して厭ではなかったが、夏も冬も上半身裸にならなければならないというのは、正道にとって少なからぬ苦痛だった。本来個人個人に「属している」筈の肉体を、どうして強制のかたちで公のものにしなければならないのか。「この学校はすぐに生徒を裸にするんだからな」。そんな言葉を口にした少年もいた。たしかに学校は運動会などの機会をとらえて、生徒の肉体を露出させたがっているようにも見えた。

自分はまだいい。でも学校の中には自分の肉体を曝したくない人間だっている筈なのだ。中間体操の時、彼は隣のクラスにいるひとりの少年のことを意識することがあった。色白の少年の上半身には、そのほとんどを占めるかたちの火傷の痕が見てとれた。初めてそれを目にした中学一年の時から5年が経ったけれど、正道は今もそれを正視することができなかった。

その少年と直接言葉を交わしたのは、これまでで数回に過ぎなかったかもしれない。しかし正道はその時自分に注がれた真っすぐな視線を忘れなかった。少年の彫りの深い、ギリシャ的ともいえる表情を思い浮かべることもあった。

それにしても自分がその立場だったら、毎日その肉体を曝さなければならないことに耐えられるだろうか、と彼は考えた。中学に入学したばかりの頃、サポーターで上半身を隠すようにしていた少年は、いつの間にかそれを身につけることはなくなっていた。そうした過程で、少年の心の中にはどんなことがあったのだろう。自分で自分を」鍛えたのか。自分と社会というものとの間で折合いをつけたのか。

世の中はきっと強者の論理で成り立っているに違いなかった。入学した時180人いた同級生は、今では170人を下回っていた。正月明けにも隣のクラスからひとりの姿が見えなくなっていた。退学の理由は成績不振だった。学校にとってそうした措置を取ることと、日々生徒の衣服を「剥ぐ」ということとの間には、相通じるものがあるのかもしれなかった。

学校の中で正道は表立って反抗するタイプではなく、むしろ早々と人生に諦めを感じているところがある生徒だった。しかし、教師たちを眺める彼の醒めた目は教師たちを刺激し、彼を危険人物に仕立て上げかねなかった。正道は学校と接触する時間を極力減らそうと、授業が終われば、それこそ一目散に家路につくのが常だった。

その日、校門を飛び出した彼の前を、既に彼よりも早く木田が速い足取りで歩いていた。木田は中学の初めの頃から妙に老成したところがあって、そうした人生に対する視線ゆえにか、正道とは不思議にウマの合うところがあった。

仲間内で北杜夫を最初に「発見」したのも彼で、どくとるマンボウの影響だったろう、トーマス・マンの名前も彼の口からはよく発せられていた。木田には飄々としている癖に急に行動的になる一面もあって、中学の頃、学校の文化祭で「北杜夫の世界」という展示を企画し、それをひとりで実行に移したこともあった。その時彼は世田谷の北杜夫の自宅の書斎を撮影してきて、正道たちを驚嘆させたものだった。

「あれは若気の至りだっただけさ」と木田は照れたように言うのだが、正道にとってそれは、ひとりひとり、人間の中にはとんでもないマグマが隠されているということを知った大きな経験だった。

その日、並んで歩き出した二人の話題は、自ずとこれからの進路のことになっていった。

「君はどうするんだ、そろそろ決まったのかい?」と木田が聞いてきた。「いやまだだ。自分でも何をしたいのか、はっきりしていないんだ。まあ今年は兄貴も受験だし、理屈にはまるでならないんだけれども、自分のことは兄貴のことが終わってからでもいいような気もするんだ。君の方はもうあれで決まったんだろう?」

木田の家は古くから続く鎌倉の大きな地主で、父親は政府系の金融機関の重役ということだった。

「ああ。僕にはそもそもサラリーマンが向いていると思うんだ。文学とかそういうのは勿論好きだけれど、それだけが人生のすべてだ、みたいなのはどうも苦手だしね。第一そういう考え方では、世の中や人間というものは解りっこないという気がするんだ」

「理屈では君の言うとおりだと思うけれど・・・」

「いや別に大層なことを言っているつもりはないんだ。例えば『社会性のある小説』なんてことを言うと、日本ではすぐ左翼系の文学みたいなことをイメージするだろう。僕が言っているのはそういうことじゃないんだ。僕が一度は銀行員になってみようかと思うのは、理屈っぽく言えば、自分の知らない世界に入ってみて、内側からこの世の中がどんな風に動いているかを確かめてみたいということなんだ。よく、世の中で一番大切なものは金ではないって言う人がいるだろう?そのとおりだろうと思うんだけれど、その言葉は実社会でちゃんと仕事をしている人が口にして初めて説得力があると思う。今の気持ちは、世の中で一番大切なものを知るために、二番目か三番目かに大事なものは何かを知っておきたいというところかな」

木田の話を聞いて、正道は前の日、新聞の広告で見た人気作家の新刊本のことを思い出した、その題は『わが子をサラリーマンにしない法』というのだった。正道がその本のことを口にすると、木田もたちまち応じてきた。「ああ、その広告なら僕も見たよ。本人が付けた題かどうかは知らないが、随分いい気なものだな。毎日9時から5時まで働いて、暇な時間は小説でも読もうかという人間がいるから、自分の商売が成り立っている訳なのにな」

二人はいつか長い坂道を下りきって、観音の切通しにさしかかっていた。木田とこうやって話し合うのも随分久しぶりの気がした。時刻はまだ午後3時を過ぎたばかりだった。

「もう少し歩いてみようか」―――どちらからともなくそんなふうに言い出して、二人は駅を東口に廻った。そして、そこで飲み物とパンを買って、大船の東にある散在ヶ池の方まで行ってみることにした。そのあたりは昔の溜め池の周囲に鬱蒼とした緑が残り、これが都会の周辺かと思わせるようなところだった。最近そこでは大手の不動産会社の宅地開発が始まっていた。その工事の完成する前に池の様子をもう一度記憶にとどめておこう、と二人の考えは一致した。

池へ行く道で、今度は正道が積極的に話し出した。

「一体君も僕も、本を読んだり絵を見たりするのが好きだ。これからの人生の中でもそうしたことをやめることはきっとないだろう。だが変な言い方になるけれど、そういう営みが人生の幸福というものにつながっていくのか、ということを最近よく感じるんだ。人生の幸福の秘訣は何よりも、自分の知っている狭い世界の中で自足して生きる、ということじゃないのか。僕等の学校の修道士の中には、貧しい国の恵まれない家庭に育って、自分自身の向学心を満たすために修道院に入った、という人がかなりいるね。そういう人たちは、修道院の中だけで一生を過ごしても、僕等が想像するほどは、辛いとも苦しいとも感じないのかもしれない。結局、知識なんてものは人間を不幸にしたり、行動を妨げたりするものでしかないんだろう。人間は、知れば知るほど自分という存在を客観的に見ざるをえなくなる訳だろうし」

「しかし」とすぐに木田が問い返してきた。「そうは言ったって、君は知らないということに耐えていけるとでも言うのかい。それにたとえ修道院の埃の中にとどまっているような人生を選択したとしても、その中ではまた知識欲や支配欲といったドロドロとしたものが出てくるのじゃないか」

正道は大分前、渡辺一夫の『わたしのヒューマニズム』という小さな本を木田に貸したことがあった。「自分はこれを正しいと思う。しかし他者が見たら、自分とは全く違った見方をするかもしれない。いやそういうケースがほとんどだろう。しかし、そうした相対的と言える思考を経なければ、真の自己は生まれえない・・・」

正道はその本からそんなメッセージを受け取ったように思う。しかし一方で、そうした醒めた認識をさして個性も持たない人間が普通の時代に持ってしまったら、それはいたずらに懐疑が生まれるだけではないか、とも感じるのだった。

「乱世というのはきっと面白い時代だったのだろうね。今ゲバ棒を振り廻したりデモをしたりしている連中だって、反抗したり批判したりする対象がなくなってしまったら、どうなるのか」

正道がそう言うと、木田はつい最近見たという映画の話をしだした。それは1960年代初頭のアルジェリアの独立運動を扱った『アルジェの戦い』というドキュメンタリー・タッチの劇映画のことだった。たしか前年のカンヌ映画祭に出品され、その際、フランスの審査員が屈辱的だと言って会場から退席したことが大きく報道されていたから、その映画の名前は正道の記憶にも残っていた。

「映画は独立運動の活動家がカスバの一室に追い詰められてしまって、最後は部屋ごと爆破されてしまうという大変な悲劇なんだ。でもその男はその部屋の中で自分の生命を燃焼させていたのじゃないか。そこでは、自分の生命を燃やし尽くすということ以外は何も存在していなかったんだ。ちなみに一旦独立を勝ち取ってしまうと、新政府の中ではたちまち主導権争いが起きはじめたというんだな」

正道も木田の感想に全く同感だった。人間は苦しいとか辛いとかいった感情を最小にしたいと願いながら、それが零になった時、今度は自分が生きているという証すら失ってしまうのだろう。正道が、先鋭な社会運動を行っている人間にある種の胡散臭さを感じるのも、その点に関係していた。運動に関わる本当の目的は自分自身の生命の燃焼と充実なのかもしれないのに、彼等は、自分は社会正義の実現のために献身しているという言動を繰り返すのだ。そういう点において、左翼運動もカトリックも何ら変わることがないようだった。

「まあサラリーマンになったら、結局はただの一会社員ということになってしまうのかもしれない。でもそういう環境を選んだ結果何も出来なかったら、それは元々自分はそのくらいのものだった、ということでしかないのだろう。しかし、僕は自分の家の庭だけを眺めているような生き方はしたくないと思う」

日頃老成した感じの木田が、見たこともないほど熱っぽく話し続けるのに、正道は驚かされた。木田も心の片隅では文学部の方面へ行って、文学や美術をやりたいと考えているところがあるのかもしれない。今彼は、自分の決めたことを自分に言ってきかせようとしているのかもしれなかった。

それにしても木田の「自分の家の庭だけを眺めている生き方」という言葉は、正道の耳に痛かった。まさにそのような生き方を選ぶことは出来ないか、と考えることもあったからだ。

「僕は君の批判するような生き方を望んでいるのかもしれないけれど、君の言っていることは正しいと思うよ。大袈裟に言えば、天と地の間にはきっと僕等の想像もつかないことが存在しているんだろう。だからこそ芸術とか学問とかいったものが存在しうるんだとも思う。それに現実的に言えば、あまりに早く人生の方向を決めてしまうのはよくないかもしれないしね。法律や経済をやった後、美術や歴史をやることは簡単だろうけれど、その反対は難しいかもしれない。いずれにせよ僕もそろそろ進路を決めるよ。そうせざるをえなくなっている訳だし・・・」

冬の日は5 時を過ぎて急に傾き、池の周囲は冷え込みがきつくなってきた。池の周りにはまだ緑は残っていたが、そこを少し離れると、既に住宅がびっしり建ち並んでおり、以前このあたりを訪ねた時の面影は失われていた。灯りの点きはじめた家々の間を再び駅の方向へ歩いていると、今この日本の中で学生運動の嵐が吹き荒れ、多くの大学の中に学生たちが立て籠もっているということが信じられない気がしてきた。そして、それらの学生たちの中には、きっとこの住宅地の家庭の人間もいるに違いなかった。

大船駅で木田と別れて横須賀線の上りに乗ると、乗客が「国立大学の入試中止か」という大きな見出しの夕刊を広げていた。まもなく受験する兄だけでなく、来年の自分自身にも影響の出てくるに違いないそのニュースを、彼はぼんやりと眺めていた。

俺は今も努めているし、これからもきっとそうだろう。しかし、人生の目的も解らないのに何故。結局、時というのは永遠の今でしかなく、それが無限に集まったものが人生というものなのだろう。とにかく自分は、その今を走り抜けていくほかはない・・・。

(三)

学校とあたうる限り距離を保っていたいと考えている正道だが、毎日通学していれば、厭でもキリスト教というものについて考えなければならなくなる時があった。中学一年の時、学校に入った彼を待ち受けていた授業のひとつはカトリックの公教要理で、これは全生徒が必修だった。そもそもこの学校を選んだのは、兄が既にそこに籍を置いていたという単純なものでしかなかったから、入学していきなり直面せざるをえなくなったキリスト教の授業は正道を大いに戸惑わせた。

教材はカトリック関係の出版社が発行したもので、そこには翻訳調の、こなれているとはとても言えない日本語で、「創造主の存在は如何にして証明しうるか」などといった文章が並んでいた。こうしたテーマはヨーロッパ中世の最大の論題だったことに正道は後で気づかされるのだが、それは勿論ずっと後の話である。ひょっとしたら、この教科書自体、ヨーロッパで使われているカテキズム(公教要理)のテキストをそのまま翻訳したものかもしれなかった。

中学一年の、人生や宇宙といったことについてほとんど何も考えたことのない少年をつかまえて、いきなりこんな問題を突き付けることにどんな意味があるのかはわからない。しかし正道にとっては、宇宙とか永遠とかいった問題に目覚めさせられたのは、この公教要理の授業がきっかけだった。

学校にはカトリック系の小学校から入学してきた生徒も多く、彼等は校内で大きなグループを形成していた。彼等は公教要理の授業を受けた後、自然なかたちで今度は御神堂(おみどう)に足を運んでいた。そして彼等の後には優等生グループが続いていた。

そうした生徒たちの行動が正道には理解出来なかった。正道には何を祈るべきか、その言葉が見つからなかった。もし祈るとしても、「自分自身が強くなれますように。その力を下さい」ということしか彼には考えられなかった。

「永遠の生命、完全な幸福――――それを望まない人間はこの世の中にひとりもおりません」。公教要理担当のハンガリー出身の新婦が熱っぽく説いていた。故国の動乱を逃れて脱出する時、一晩で真っ白になったという髪を揺らしながら語る姿に魅力を感じないことはなかったが、その内容に正道は共感することが出来なかった。中学一年生の頭脳と感性を以てしても彼はこんなふうに考えることしか出来なかった。

「生きるなど、そんなことはこの世のことだけで十分だ。亡くなった後、どんなかたちであれ意識が残るなどということには、とても耐えられない」

しかし彼はそうした考えを、極力表面には出さないようにしていた。それは生きていく上での処世術ということだったのかもしれない。学生運動の影響を受けた山西や彼のシンパが学校と衝突を繰り返すたび、正道は「そうした行動は一種の自己陶酔で、本人はその中で幸福と生命観を実感しているに違いない」と半ば羨ましい気持ちでそれを眺めるのだった。

教義そのものへの抵抗はあったのに、それでも正道がキリスト教というものに関心を持ち続けていたのは、何と言っても聖書、中でもそこに描かれたイエスという「人物」の魅力に惹かれたからだった。

中学二年の夏休み、福音書をどれかひとつ読んでくるようにという宿題が課せられたことがあった。一番短いのはマルコ伝だという神父の説明に、多くの生徒がそれを選択したが、彼は折角読むのならと、新約聖書の巻頭、マタイ伝を読んでみることにした。冒頭の家系についての煩わしい記述を過ぎたあたりから、彼は福音書の世界に一気に引き込まれていった。そして夏休みが終わるまでには、マルコ、ルカ、ヨハネとすべての福音書を酔い終えてしまっていた。

休みが明けて、日本人の神父が何人かの生徒に感想を求めた後、こんなことを言った。

「今ベストセラーにランクされている本に『徳川家康』がありますね。私も読んでみました。確かに面白い。でも二度、三度と繰り返し読む気になるでしょうか。聖書は何遍、何十遍読んでも面白いんですよ」

その言葉に正道は素直に肯くことが出来たし、ここにもその本に感動した人間がいると叫びたい衝動すら覚えていた。

それから少ししてからだったろうか。正道は母から、女学校時代に使っていたという、古い一冊の聖書を贈られた。黒革のバイブルは文語訳で、引き締まったその日本語は、夏休みに読んだ口語訳の聖書よりさらに強く、いやそれとは比較にならないほど強烈に彼を魅了した。

しかし、聖書を読んで受けた彼の感動というのは、すぐれた文学作品に接した時に感じるそれとほとんど同じものだった。そしてその感動の核にあるのは、イエスという類稀な「人格」に対する共感だった。

そもそもイエスという存在に魅了されない人間の方が、この世の中では少数派なのかもしれないが、正道は、自分がイエスに触れて味わった感動を共有出来ない人とは、共に人生を語りたくないとさえ感じていた。同時に彼は、自分の受けた感動は宗教というものの本質からは外れたものなのだ、と独り決めしていた。

学校では英語の授業に英文の聖書がテキストとして使われることがあった。それは初学者用に原文を平易な言葉に直したバイブルだったが、彼はそれに物足りなくて、横浜の管内の書店で英文の聖書を求めた。それは文語の聖書以上に壮大な人間ドラマだった。

それを読んで彼は、ヨーロッパ中世の芸術家たちがどうしてあれほど繰り返し聖書から題材やテーマを取り上げたか、その訳が理解できるように思った。バイブルに描かれていたドラマは、画家や作家たちの想像力や創造性を掻き立て、刺激するに足る面白さを持っていたのだ。

そう考えると、「中世という時代は社会の拘束力が強く、作家は自由な創作活動を行うことができなかった」などという説明は、物事の一面しかとらえていないのではないかという気がした。そういう歴史の見方は、世の中や体制を変えたら人間は直ちに幸せになれるという考え方と、同じ根っ子を持っているのかもしれなかった。

現在、社会では公害問題などもろもろの矛盾が一斉に噴き出してきている。しかし、体制やシステムが良くないから人間は幸せになれないのだと考えるのなら、それはあまりに短絡的で幸せな考え方だと思わざるをえなかった。

公教要理の授業は早い段階で、人間の原罪というテーマに移っていった。人間は生まれながらにして罪を背負ってきた存在である、その罪から人間を解き放つことが出来るのは、

新しい誕生としての洗礼(バプティスマ)しかない・・・。そんな説明を聞いた後、ひとりの生徒がこんなことを口にしていた。

「キリスト教というのは僕にとって異質だ。ついていけない。罪の意識などなく生活している人間をつかまえて、そんなにまで罪の意識を吹き込む必要がどこにあるというんだ」

しかし正道の考えは違っていた。彼にとってキリスト教の中で最も魅力的だったのは、この原罪という教義だった。生まれ落ちたこと自体が罪であり、自分の意志と関係なく、そのように運命づけられている人間。正道はその認識を自分が常に感じてきた虚しさと結びつけることにより、人生を理解できたと思うのだった。「良き果実を結ばぬ果樹はこれを切りて捨てよ」。こうした文句にも彼は惹きつけられた。これもまた、現在という教義に惹かれたのと同じ気持ちからだったろう。

生徒たちの間では、時として幼稚な「神学論争」が交わされることもあった。カトリックの言う三位一体、すなわち父(創造主)と子(キリスト)と聖霊は三つにして一つとはどういう意味か。何故神と人とは同一の形であるとされるのか。奇蹟とは本当に起こりうるのか。そしてキリスト教を信仰することは、即ヨーロッパ文明に全面的に帰依することにつながるのかーーー。

仮に信仰に入るとしても、奇蹟などというものは、それをことごとく否定しても何の問題もない、と正道は考えていた。反面、キリストの「神性」ということは、彼を疑問に駆り立てた。しかもそれはキリスト教の信仰のまさに枢要な部分だった。

クラスの中で正道がそうした類の疑問をぶつけられるのは井田だった。井田はカトリックの家庭に育ち、カトリック系の小学校から進学してきた生徒のひとりだったが、彼等にありがちな偏狭さや冷たさがなく、正道は時々彼と突っ込んだ話をした。

「信仰に入るのには色々な道があるんじゃないか。富士山の頂上に至るのに吉田口からがいいか、御殿場口からがいいかなんて議論は意味がないだろう。あまり頭で考えないで、まず祈ってみるというのもひとつの方法だよ。そのうちに祈るべき対象が見えてくる」

井田はそんなふうに正道に語ったことがあった。

永遠の生命など、考えるだに恐ろしいことだと考えていた正道がよく手に取ったのは。正宗白鳥の小説群だった。彼が白鳥を読むようになったきっかけは他愛もないものだった。その名前が決まっていて、一体この人物は何者なのだろうと思って百科事典を引いてみたのが白鳥との出会いだった。そこで見た肖像の、ちょっと眩しそうに横を向いた表情が好ましかった。それがきっかけで手に取るようになった『生まざりしならば』『入江のほとり』などの陰鬱な小説群を正道はまさに耽読した。「生まざりしならば」、あるいは「生まれざりしならば」の嘆きを、彼はそのまま自分のものとして受け止めていた。

しかし正道にとって不思議に思われたのは、生の無意味さを感じていた白鳥が、生の虚妄というテーマに倦むことなく小説を書き続け、それを社会に向けて公表したということだった。白鳥は人生の無意味さを歌い続けるという行為の中で、自らの生命の充足を果たしたのだったろうか。

そのことは正道に文学史の本で読んだ西行をめぐるエピソードを思い起こさせた。最晩年になって勅撰集が編まれるということを聞いた西行は、それまで読み捨ててきた自作の歌の数々をまとめて歌集とし、それを撰者のもとへ送ったというのである。そんなことをしなければ、西行の人生はもっと完結したものになっていただろうか。勿論そう考えることもできるだろう。しかし、正道はその考えには同意できなかった。芸術というものの目的が、人間個人の中で体験された感動を他人と共有したい、他者にもそれを追体験してもらいたいという願いにある以上、西行の選択は当然のことだったろう。

その少し前、正道はテレビでチャップリンの『モダンタイムズ』を見る機会があった。その頃午後3時から5時頃にかけてのテレビは、一週間毎日同じ映画を繰り返し放送していて、学校から帰った彼はそれをよく見ることがあった。

『モダンタイムズ』は彼に良い印象を与えなかった。そもそも喜劇として、それは多くの批評家が絶賛するほど面白いものとは思えなかった。そして何よりも、近代社会・管理社会の重圧を訴えるように見えて、実はそうしたテーマを描くことによって創作家としての生命の自足を果たしているチャップリンの印象が強すぎて厭味だった。これでは木田と話した『わが子をサラリーマンにしない法』と同じことじゃないか。

永遠などというものに自分は関心がない、と正道は考えていた。しかしその一方で彼は、自分がこの世に生きたということを示す何らかのものを残したい、という気持ちも抑えられなかった。そこで彼がひねり出した結論はこんなものだった。

人間という生物にとって、結局「永遠」とか「残る」とかいうのは、生命として種としての継続以外ありえないのだろう。そのことは疑いえない。では生命としての継続を成しえなかった人間はどうなるのか。そこで彼はこうも考えた。種としての継続以外にも、人間は様々なかたちで精神的な影響を残しうるものなのだ。世代と空間を超えて互いに影響を与え合うということの中にも、人間にとっての「永遠」はありうるのではないか。

こうした考えを、ある時正道は井田に話したことがあった。カトリックの信者である井田の反応は、正道にとって意外なものだった。

「確かに自分には、主とか永遠の生命とかいったものを求めているところがあるのかもしれない。しかしそうしたものが本当に存在しているかどうかなど、僕には定かではない。あるのかないのか、どちらの考えも否定するつもりはない。ただ自分が何故キリスト教というものに関わっているかと言えば、結局それはこの世でより良く生きるためだ、としか言いようがない気がする。人生の目的というのは、人生そのものにあると言ってもいいのではないか」

井田の話を聞きながら、正道はむしろ自分の方がカトリックに近いのではないかと、妙な気分に襲われていた。

(四)

正道にとって、父親の存在は常に大きかった。しかも彼にとって、父親とは自分に最も影響を与えている筈なのに、最も理解しがたく思われる存在だった。子どもから見れば、母親とはかつて肉体的にも一体だったということから、それとのつながりが見えやすいものだろう。それに対して父親というのは、なかなか特定しにくい存在なのだ。特に男の子にとって父というのは常に謎であり、それは解き、乗り越えられるべき存在なのだ。

正道の父親は事務用品の小さな専門商社を経営していた。父の性格をどのようにとらえたらよいのか、正道には見当がつかなかった。強気なのか弱気なのか、すべての人間がそうなのかもしれないが、その性格は出会った百人が百通り違ったかたちで描くのかもしれなかった。

あまり顔を合わすことはなかったが、会えば父は彼と兄とをつかまえて、長々と自分の仕事のことなどを話して聞かせるのだった。始まると長くなるので、正道たちは父が帰ってきそうな気配がしたら、すぐに二階の自分の部屋に籠ってしまうのが常だった。以前兄は「うちの子がよく勉強するのは、親父の話が面倒だから部屋に逃げ込むというだけのことさ」と言って笑ったことがあった。「部屋にいてもすることがないから、勉強でもしようかということになる訳さ」

それにしても、どうして父は外で体験したことを家に帰ってまで話したがるのだろう。正道にはその心理がまるで理解できなかった。こんな苦しい事業をしている、こうやって大きな障害を乗り越えた。小さい頃自分はこんな苦労をした・・・。正道がその立場だったら、外の世界で経験したもろもろの不快なことを、自分の世界に帰ってから再確認しようなどとするだろうか。言葉というものには力があるのだから、一度口にしたことは、より鮮明な増幅されたかたちで記憶の中に定着されてしまうのではないか。

父親の長広舌が父という人間の本質を垣間見せることもあった。ある日、中央官庁との商談をまとめてきた父が、その日会ったという若い官僚のことについて話し出したことがあった。その役人は年長のノン・キャリアの事務官に「おい、属官」と呼び掛けたのだという。その光景を語る父親の表情を見て、正道は自分の窺い知れない父の姿を見たような気がした。

またテレビの時代劇を見ていた時だった。戦いの後、敗れて捕えられた武将が生柿をすすめられて、それを断るというシーンがあった。「柿は腹に悪うござるので」。その言葉を聞いて、敵軍の侍たちは「引かれ者の小唄よ」と嘲笑する。その場面を見て、父親がポツンと言った。「世の中にはすぐにこういうことを言いたがる奴がいるんだ」

子どもの頃家族と別れて苦労した父親は、進学のことでも生活のことでも、人並み以上の苦労を経験した人らしかった。しかし本人はそうした苦労を無意味だったと考えている訳ではないのだろう。自分のそういう思いを「引かれ者の小唄」などという一言で片づけるような輩がいたら、父はその人間を絶対に許すことは出来ないのだろう、と正道は想像した。

しかし、父親への共感が強まりそうになると、正道は意識してそこから逃れるように努めた。一方父親の方にも、肉親の情に恵まれなかったせいだろう、家族を相手にしてすらその顔色を窺ったり駆け引きをしたりするところがあった。正道は友達の家に遊びに行って、家族の誰彼が勝手に言いたいことを言い合っている姿を見て、不思議な感じを覚えることもあった。

正道の進路のことについて父親が何も言い出さないというのも、父親の駆け引きのひとつなのかもしれなかった。そしてそのことが正道の気分を不安定なものにしていた。父が今やっている事業を誰が次ぐのか、そもそも父親には子どもに自分の仕事を任せたい希望があるのか。正道は自分の好きな道を選んで進学していいのかすらわからなかった。

正道としてはいわば消去法による選択の結果、漠然と文学部の系統へ進みたいと考えているのだが、そうした選択をすることについて父親が何と言い出すかは、全く見当がつかなかった。そして正道も父も互いが言い出すのを待っている感じで、時間が過ぎていくのだった。

正道にとって母親のイメージというのはもっととらえやすかった。母は元々茅場町にあった大きな商家に生まれた人で、谷崎潤一郎の『少年』という小説はまるで自分の家を描いているようだ、と話したことがあった。ミッション・スクールの卒業生で、昔で言う職業婦人になり、高齢になって正道を産んだ時にはもう40を迎えようとしていた。

母の中には一種の教養主義的な傾向があったことは間違いなく、小学生の正道に当時講談社から出たばかりの少年少女世界文学全集を買い与えたりした。しかし一方で彼女は、小説とか文学とかいったものに潜む脆弱性を決して好まないようだった。正道は母に対し、「自分が小説や文学といった無用なものに親しむようになったきっかけは母が作ったのだから、責任はそっちで取ってくれ」と言いたくなることもあった。

家系の中では、正道にとっては誰よりも母の母親、もう90歳になろうかという祖母の影響が大きかった。祖母の父は幕臣で、和宮が江戸へ下る時、その警護役を務めたのだという。そして彼女自身の名前も「十六代様」から一字を頂戴してつけられたのだという話を聞いたことがあった。ふだん彼女は正道の母の姉の家に暮らしていたのだが、しばしば正道の家へやってきては長く逗留していった。

縁側にじっと長く座って瞑目している祖母の姿は、正道にとって見慣れた風景だった。小さい頃、彼は「何を考えているのか」と尋ねてみたことがある。「ただ目をつぶって自分を顧みているのだ」というのが祖母の答だった。彼女のそんな様子を見ると、彼はどこかで聞いた「士族の誇り」などという言葉を思い出した。そして自分の中には、ひたむきな祖母の性格も、人間関係に不器用な父の資質も、すべてが流れ込んでいると思うのだった。

(五)

木田と散在ヶ池のあたりを歩いた日の夜、正道は一冊の本を広げた。といってもその本は最早それに目を落とすまでもないほど、彼自身の記憶となっている伊東静雄の詩集だった。自分の部屋では勉強以外の本は手にしないようにしている彼だが、それでもこの本だけは例外だった。

正道が静雄の名前を知ったのは全くの偶然からだった。現代国語の試験問題に彼の『自然に、充分自然に』という詩が使われていたのが、静雄との出会いだった。その後、彼は保土ヶ谷駅近くの本屋で新潮文庫の『伊東静雄詩集』を見つけた。その詩集の中に、彼は韻文と呼びうる日本語を初めて発見した。

「私が愛し そのため私につらい人に 太陽が幸福にする 未知の野の彼方を信ぜしめよ」

「わが去らしめしひとはさり・・・・・四月の真っ青き麦は はや後悔の糧にと収穫れられぬ」

「行ってお前のその憂愁の深さのほどに 明るくかし処を彩れ」

などというフレーズは彼に痺れるような快感を与えた。

同時に彼は、詩集の解説の中で桑原武夫が描いていた詩人のプロフィールにも強く惹きつけられた。親から引き継いだ多額の債務を背負いながら、市井の一中学教師として誠実に生きていった静雄。しかし彼にはどうしても一小市民にはなりきれぬところがあって、それは「歌」となって噴き出していったのだ。静雄にとって青春とは、自分はその名に値するものを何一つ所有していないのだという喪失感でしかなかったのだろう。その思いは正道にとって痛いほど共感出来るように思われるのだった。

人生への悔恨を静雄は美しい結晶として結実させた。彼の内面が激しく渦を巻けば巻くほど、その作品は一層静かな外見を保つ。そしていつしか、内面のつぶやきは彼ひとりの感情の表白であることを超え、普遍的なものへと高められていった。正道にはそうした生き方こそが、自分の考える芸術家のあり方のように思えるのだった。

高校の初めの一時期、正道は毎日静雄の作品を一篇ずつ記憶することを自分に課したことがあった。そのために単語や数式の暗記が犠牲になったとしても、悔いは全くなかった。

静雄の詩が青春の歓喜と無縁なように、正道自身にとっても青春の光は別世界の事柄だった。自分はただ仕方なく人生を歩いていく、しかもその中で努め続けるだけなのだ・・・。

そんな彼にとって、通学の電車で見かける少女たちは、文字通りまばゆいばかりの存在だった。世の中にはあの少女たちのような存在もあるのだ。正道は彼女たちがさらに美しく変身して花園の中へと飛び立っていく様を夢想した。

毎朝、保土ヶ谷駅へ行くバスに、自分より1、2年年下らしいひとりの女生徒がきまって乗ってくるのに、正道は気づいていた。彼の乗車する次の停留所から乗り込んでくるその生徒は、自分と隣り合わせの女学校の制服を身につけていた。

どうしてその少女のことが目に入ってきたのだろうか。彼女はおかっぱ頭でしかも高等部を刈り上げ、刈り上げたところに剃刀をあてた跡が青々と残っているという、一寸不思議な髪型をしていた。その肌は蝋のように白く硬質で、彼はそれまでそんなに内側から輝く皮膚を見たことがなかった。他の人が見れば、ごく幼い平凡な少女に見えるのだろうが、彼にとってはその外見はその人の内面の美しさを表しているとしか思えなかった。

電車の中で彼女は誰と言葉を交わすでもなく、いつもひとり本に視線を落としていた。ある朝、正道は少女のすぐ後ろの位置に押し出された、彼女は周りの人たちに押されながら、シャーロック・ホームズの名前が出てくる推理小説を読み続けていた。自分もそれを読んでみようと、彼は文庫本の頁の上部に印刷されていた本の題名を頭に刻み込んだ。

いつも自分の世界にひとり籠っていて友達がいないのだろうか。彼は頭の中で、彼女のイメージを勝手に作り上げていった。孤独な美少女と自分が人生の孤独を語り合って、「人生とは淋しいものだけれど、その淋しさを語り合える人が傍らに居てくれるということは何と素晴らしいことか」と思えるのなら、と彼は夢想した。

ある朝、正道は少女が級友らしい女生徒たちと如何にも楽しそうに談笑している姿を目撃した。「なーんだ」と彼は思わぬでもなかった。しかし、その場所から周囲に華やかな光を振りまいている彼女の様子は、彼をほっとした気分にさせるのだった。

彼の少女に対する気持ちの中には、美に対する怖れという感情があった。それは、美とか理想とかいったものがこの世の中には存在しており、それが自分の前に立っているということへの怖れだった。勿論そんな気持ちというのは、自分ひとりの幻想だったのかもしれない。しかしそうした自分の気持ちを幻想だと言うのなら、世の中に幻想でないものなどありうるのかとも彼は考えた。

下校時間、少女が下りてくるのを正道は駅で待ち続けたこともあった。しかし彼はそれ以上何の行動に出ることもなかった。自分が臆病だったということ以上に、「自分のように生に何の執着も感じられない人間が天使に関わりを求めてはならない」という思いが彼を引き止めたのだった。

「ながきとし月過計(なりはひ)の心われより奪ひにし かの奇しきあかるきおもかげぞそこに立てれば」

正道は静雄の詩の中でも特に好きな『柳』の詩の一節を、その少女の姿にあてはめながら口ずさんでみることもあった。そして頭の中で勝手に甘美な失恋のストーリーを想像してみるのだった。

しかし彼は理想への憧れということだけで女性を眺めていた訳ではなかった。美への強い憧憬の一方で、それを自分の手で汚したいという衝動も彼を襲っていた。その頃、どういう風の吹き回しからか、純潔教育という名の下に性教育をある神父が講義したことがあった。「欲望というのは人間にとって欠くべからざるものだ。食欲がなければ人間は生きていけない。性欲がなければ人類は存続できない。だから問題は、それらの欲望をどのようにコントロールしていくかということだ・・・」

そんなことは百も承知だ、と正道は思った。わかっていてそのとおりにならないのが人間というものじゃないか。彼の部屋から、性欲を処理した痕を見つけた母親が「あなたには理想を高く持っているところと、そうでないところの両方があるのね」と言ったことがあった。彼は全くそのとおりだと思いながら、その言葉を淡々と聞いていた。

(六)

学生運動はなおも激しい勢いで燃え続けていた。昭和44年の年が明けて、東大や東京教育大の一部では学生たちがストの解除を議決したが、大学内の被害は予想以上に大きく、その年の東大と教育大の入試は中止となった。

こうした事態の中、兄は外見だけのことだったろうが、淡々と毎日の日課をこなしていた。別に特定の大学に進むことに何の意味がある訳ではないが、それまで払ってきた努力から然るべき結果を得られなというのは辛いことだ、しかも世間はその人の人生や経歴にそんな事情があったなど、あっという間に忘れ去ってしまう。自分自身のことだったら何とも思わないのかもしれないが、兄のことだけに正道はかえってあれこれと考え続けた。

新学期には最終的な進路希望を学校に申告しなければならない時期になっても、正道はまだ自分の進路を整理できないでいた。そして家の中で父親との話し合いは行われないままだった。

ある日の放課後、正道はいくつかの辞典を調べるために図書室に残っていた。窓の外の空は厚い雲に覆われ、広い部屋の中には早春とは言ってもまだ真冬の冷気が漂っていた。本棚の間には人影はほとんどなく、正道の他には米田の姿が見えるだけだった。

米田はどんな学校にも一人や二人は必ずいる、教師にいじめられやすいタイプの生徒だった。小説、特に外国の翻訳小説を猛烈に読み続けているらしく、それに伴って彼の内面がどんどん深化していくのが、正道には手に取るようにわかった。しかし生徒のそうした成長は、十年一日のごとく同じところにとどまっている教師にとっては嫉妬の対象としかならないのだろう。米田には反抗的というレッテルが貼り付けられているようだったが、正道にはその奥に柔らかすぎる内面が容易に見てとれた。一体、教師はどうしてそんな簡単なことに気づかないのか。

理科系が苦手な米田は、高二の初めから早々と数学の要らない私立の文科系のコースを選択していた。その分少し余裕が出来たらしく授業の合間に以前にもまして分厚い本を広げている姿を、正道は見掛けていた。

高校一年の夏休みのことだったろうか。正道は借りていた本を返しに、根岸線の山手駅に近い米田の家を訪ねたことがあった。山手と言ってもそのあたりはごちゃごちゃした感じの商店街が続き、その裏手に彼の家があった。彼の屋根裏部屋のすぐ向かいは、外国人相手の娼婦の部屋だということだった。

一寸だけ挨拶を交わした父親は、正道とまともに視線を合わさない、見るからに気の弱そうな人で、米田の話では文学青年崩れで、若い頃に書いた小説を段ボールに今も大切に保管しているということだった。

「生きていくっていうのは、そもそも自分を表現していくっていうことだろう?すべての人間が表現をしているんだ。だったら何を残せようが残せまいが、そんなことはどうでもいいじゃないか。自分はこれだけのことをした、と言えればそれでいい。いや何もしなくたって構わない。何もしない人生だって、それはひとつの表現だろう。でも俺の親父は駄目なんだ。自分は何もやれなかった、出来なかったとばかり考えているんだ。しかし俺に言わせれば、書こうが書くまいがそんなことはどっちでもいいんだし、第一そんなに何かを残したいと言うのなら、今からだってやり直せばいいんだ」

米田からその時に聞いた話を、正道はよく思い出した。

2月の陽は早くも傾き、図書室の中は急速に陰を増していった。

「俺は俺の好きなように生きていくつもりだ。悔いの残らないようにね。具体的にどんな生き方をしていけばいいかはまだわからないけれど、まずは大学の文学部というところに籍を置いてみるつもりだ。まあ今の世の中、どうやったって自分ひとりくらいなら食っていけるだろうし」

米田のストレートな話しぶりに眩しさを覚えて、正道は少し話の方向を変えてみることにした。

「最近、君も大人しいみたいじゃないか。教師ともあんまりぶつかっていないようだし」

米田は中学の終わり頃だったか、正道にとって忘れられない事件を起こしたことがあった。その時期、現代国語の授業を担当している教師に、真剣に授業に取り組んでいるとはとても思えない男がいた。自分の準備不足を誤魔化そうとするのか、授業はいつも漫談ばかりで、そのため一部の生徒には人気があったが、大方の生徒はそのインチキ性を見抜いて、およそその脱線にはうんざりといった有様だった。

その日も延々と雑談が続き、ようやくのことで授業が始まった。教科書は子規の短歌のところだった。「・・・夕かたまけて熱出でにけり」。この部分についてその教師が言った。「夕方『曲げて』ですな。自分の意思に関係なく、無理矢理熱が出るということです」

子規には興味があって、その動詞が「片設く」という言葉であることは調べてあったから、その説明を聞いて正道はハッと目を上げた。「そんな馬鹿な」

その時、米田がサッと手を挙げた。びくっとしたような教師の指名の後、米田はこう言い切った。「そこのところは『片設く』、つまり夕方を待ってという意味だと思います」一瞬、教師の顔が歪んで見えた。ちょうどその時、授業終了のチャイムが鳴った。

休憩時間に入るや、「おいやったな。あいつにはそのくらい言ってやった方がいいんだ」と声をかける者もいたが、米田はふてくされたような表情をしたまま下を向いていた。正道も彼に何か言いたかったが、適当な言葉が見つからず黙っていた。自分も発言したかったのに何も言えなかったことが恥ずかしい気がしたのだ。

「あああのことか。あれは教師とただ議論しようと思っただけのことさ。ただ最近は何かもう、教師とぶつかったりするのも馬鹿馬鹿しくなってきたというところかな」

薄暗くなってきた窓辺に縁りながら、米田はさらに言葉を続けた。「結局、教師の耳には自分にとって都合のいい生徒の声しか入らないんだな。そもそも奴等は経験によって成長するということのない人種だということが分かってきたんだ」

「おいおい、老成するのはまだ早いぜ。もっともっと暴れてくれよ」と正道は口にしたが、それは本音だった。

「君はいいよ。芸術でも何でも好きなことが出来るんだし、第一自分のやりたいことが存在しているんだから。でも僕にはそれがないみたいだ。自分の志望を決めるということにしたって、結局のところ、消去法でしか決められない。そしてものを決めた後は、いつもそうなんだが、自分の選んだもの以外の方がもっと魅力があるように思えてくるんだ」

黙って正道の話を聞いていた米田は、しばらく間を置いてからポツリと言った。

「人間はどこから来るかは決まっている。これはどうしようもないことなんだ。だけれど、どこへ行くかは自分自身が決めていくべきものじゃないのか。俺はそんなふうに思うんだ」

全くその通りだ。しかしどうやったら、彼のように悔いなく貫いていく道を見つけられるのか、正道には全くわからなかった。

テレビに出てくる若者たちが判で押したように、「大人は醜い、社会は汚い」と叫ぶのを見るたび、正道はそうした人間の心理が理解出来ないと思うのだった。彼にとっては、将来自分が「醜い大人」になっていくことは間違いないことのように思われた。自分だけが綺麗でありたいというのなら、それこそ夭折するしか残されている道はないし、そもそも自分を無垢で美しいと考えることは、救いがたいナルシズムのように感じられた。

そんなふうに考えてきた正道だが、米田のような感受性の強い少年が些細な言動や態度のことで教師から叱責されているのを見ると、大人というのは他者を批判する時、何と雄弁になれるものか、と感じずにはいられなかった。しかもその「指導」は教育という大義の下になされるだけに、余計始末の悪いところがあった。

彼にとってキリスト教は知的な関心の対象であり続けていたが、それ以上、教会などに足を踏み入れることがなかったのは、聖職者や教師たちのイメージがブレーキとなっていたからだろう。

ある日、理科教室で物理の授業が始まるのを待っていた時のことだ。何かを熱心に議論しているらしい一団の横でぼんやり外を眺めていた正道に、井田がつかつかという感じで歩み寄ってきた。

「今のことを君はどう考える?君のことだから、勿論読んではいると思うのだけれど」「何?急に言われても・・・」「いや失敬。君も話を聞いていたと思ったのだから。実は今度ウチの教会の中にある委員会が『沈黙』を好ましからざる図書に指定したんだ。今時そんな指定にどんな力があるのかは知らないが、君はこういうことをどう考える?教会の方は、主が殉教者の前で沈黙を続けた、と書かれている点を気にしているんだろうが、僕には別に問題のある小説とは思えないんだが」

少し前話題になったその小説には、一応正道も目を通していたが、一言で言って、それは甘ったるいだけの作品としか彼には思えなかった。作者が期待しているらしい奇蹟という言葉を俗な言葉に置き換えて言えば、それは現世利益ということになってしまう。正道にとっては、そうしたことは全く関心外のことだった。

「読んださ。笑ってしまったがね」

はぐらかされたと思ったのか、井田はさらに感想を求めてきた。

「次々に殉教を遂げていくキリシタンを前にしてなぜ神は沈黙を守るのかという問いは、宗教というものの本質から考えれば、およそ的外れの疑問なんじゃないか。そういう疑問を持つ人は、本当に信仰というものを実感したことがあるのだろうか。要するに神は、もしそれが存在したとして、そういう時にこそ沈黙を守らなければならないんだ。僕は拷問に遭っても信仰や信念を守り通せる人間の存在は奇蹟だと思うし、そうした態度を冷笑したりするつもりは毛頭ないから誤解しないでほしいんだが、キリシタンたちにとって、殉教の瞬間は文字通り至福の時だったのではないか。なぜカトリックがあの小説を好ましくないとしたのかは知らないが、あれはおよそ非宗教的な本だと言うしかないな」

井田との話はいつの間にか、キリスト教における教会の必要性、宗教における組織というもののあり方へと移っていった。井田は幼児洗礼を受けたカトリック教徒でありながら、教会という組織への疑問をよく口にしていた。彼の話を聞いて、正道はこんなふうに言葉を続けた。

「結局、宗教とか信仰というものは、ひとりひとりの内面のものだろう?でも自分がそれを絶対だと感じたものは、どうしたって人にも伝えたくなる。それが『福音』というものさ。そしてその福音を伝えるためには、どうしても組織が必要になってくる。組織が出来れば、それはいつまでも一枚岩ではありえない。だからその中で、考えを統一していこうという動きが出てくるのは当然のことだろう。そのひとつが、今君の言った図書指定みたいなことなんだろう。別に僕は今回のそれを良いこととも悪いこととも思わない。っそれは仕方がないとでも言ったところかな」

自分が目新しいことを言っているつもりはなかったが、井田がまだ聞きたそうにしていたので、正道はもう少し続けてみた。

「今の君のような話を聞くと、僕には、カトリックというのは本当にマルクス主義と似ていると思えてくる。最近僕は林達夫の『共産主義的人間』という本を読んだのだけれど、その中に書かれている共産主義という言葉は、すべてカトリックと置き換えることが出来そうなんだ。組織がそれ自体、生命体として勝手に成長を始めていくところや、それが本来の思想や目的を越えて活動していくところなど」

「確かに君の言うとおりかもしれない。それぞれの人間が違っているからこそ個々の人間が存在する意味があるという考え方は、教会の中では通用しにくいんだ。宗教家には視野の狭いところがあるんだな。狭くても深ければまだいいんだが、一番困るのは狭くて浅いというタイプだよ」

少し首を振りながら、井田はそんなことも言った。

学校の中で神父たちの多数を占めていたのは、スペイン、イタリア、そして南米といったラテン系の国々の出身者たちだった。彼等の多くは単純なまでに強い情熱と使命感を持ち、その一方でどこか官能というものに対しては寛容な気配があった。自分から積極的に話し掛けたりすることはなかったが、正道の感じていた「共感」はいつの間にか伝わっていたのかもしれない。ひとりの若いスペイン人の神父と、彼は時々言葉を交わすようになっていた。

中学の終り頃、マヌエルというその神父は公教要理の時間にハンガリー人神父の助手として初めて教室にやってきたのだった。何のはずみだったろうか、授業の後、正道はローマで言語学を学んだという彼にいくつかの単語の語源を訊ねてみた。

正道には以前から単語を語源から覚える習慣があった。その時どんな質問をしたのかは忘れてしまったが、次の授業の時、彼が何冊も外国の辞書を持ってきてくれたことは、今もはっきりと記憶に残っていた。その時、若い修道士が問わず語りに口にした言葉を、正道はよく思い出すことがあった。

「君たちが羨ましい。いくらだって勉強ができるじゃないか。自分の故郷のバスクは豊かではなく、家は兄弟も多かったから、上の学校に進みたくても親に言いだすことはなかなか出来なかった。でも成績は悪くなかったから、教会の神父さんが神学校に行ったらどうかと勧めてくれたんだ。修道会に入ればいろんな国に行けるというのも魅力だったし、その時は修道院というのは人に干渉することもされることも少ない世界だと思っていたんだ」

日本に来てまだ間がないとはとても思えない日本語で、彼はそんなことを話した。

「日本語は難しいかですって?バスク語よりずっと簡単ですよ!」

正道はバスク出身の彼が真顔で、「スペイン人ではありません。バスク人です」と自己紹介するのを何度も見たことがあった。また校長や学校幹部の頭の固さを皮肉交じりに話す様を目撃したこともあった。ひょっとしたらこの人も、教会や組織といったものに違和感を感じている人間のひとりなのかもしれなかった。その一方で、彼がドイツ人の神父たちの前では、そんな気配をつゆ見せないことにも正道は気づいていた。

ラテン系のひとたちと違って正道が苦手だったのは、一部のドイツ系の聖職者たちだった。彼等の日常の言動からは、生徒の中に人間の悪しき面を発見してやろうという癖が窺われるのだった。『車輪の下』の主人公に反発している筈の正道ですら、「こういうのはやりきれない、自分の良くない点は自分が一番知っているのだから」と感じさせられるのだった。本来宗教とは99匹の羊を置いてでも一匹の迷った羊を探し求めるべきである筈なのに、実際のそれは政治や経済の世界と同じく、99匹の方しか向いていないのかもしれなかった。

彼は中学三年の夏に見たひとつの出来事をよく思いだした。

三浦半島の先端近くの入江に設けられた学校の海の家では、毎年夏休み、臨海学校が開かれた。周囲のほとんどを岩場で囲まれた小さな湾には一般の海水浴客が来ることはなく、生徒たちは湾を独占して我が物顔に泳ぎまくるのだった。合宿の中頃には水泳の検定があって、入江の入口を5回往復できれば白帽、10回なら黒帽というように帽子の色が変わっていく仕組みだった。三年生ともなると、ほとんどの生徒がもう黒帽になっていて、合宿のハイライト、2キロ沖に設けられたブイとの間を往復する遠泳に参加するのだった。

遠泳は正道にとっても愉快な体験だった。肉体の疲労が極限状態に達したと思われたその瞬間、皮膚の下にもうひとつの体力が存在していたという発見は彼を驚かせた。そして青く抜け切った空の下、ただ手と足を動かしていると、人生というものもこんなふうに単純に生きられればいいのにと思われてくるのだった。

「心からこころにものをおもはせて」だったかな。「身をくるしむる我が身なりけり」。「ものをおもはせて」というのは言い得て妙だな。西行はどうやってこの文句を思いついたのだろう。それにしても良い歌というのは、どうしてこうスッと頭に入ってくるのだろう。歌の方がむしろ記憶されたがっているみたいだ・・・。両手両足をひたすら動かしながら、正道はぼんやりとそんなことを考えていた。

合宿では夕食の後、毎晩レクと称する遊びの会が開かれた。その雰囲気には何か同性愛的な濃密さがあって正道にはなじめなかったが、ひとりでいる訳にもいかず、彼も割り当てられたパートに参加するのだった。

最後の晩、彼のグループはスペインの闘牛のデモンストレーションを披露することになった。マヌエル神父の発案だった。生徒たちは前の日の昼から、闘牛士、勢子、観客などの役に分かれて稽古を開始した。他愛もない遊びだったが、やり出してみると知らなかった闘牛のルールや約束事を知らされたりして、正道たちは次第にそれに熱中していった。

大広間の真ん中でマヌエル神父が自ら闘牛士入場の所作を演じてみせていた時のことである。いつの間にか生徒たちの後方に年配のドイツ人神父がやってきて、その様子を眺めていた。そして彼は鼻先にフンという表情を浮かべて去っていった。少年の心というのは敏感なものである。広間には一瞬、白け切った空気が漂った。

そのことがひとつのきっかけとなって、正道は学校の中にある派閥やグループといったものを意識するようになった。校内は学校を経営しているドイツ人たちとアメリカ人が、いわば主流派を形成していた。一方ラテン系の人たちは数は多いものの傍流という印象だった。人間の集団のあるところ、教会でも政党でも会社というところでも、そうした力学は必ずや存在しているに違いなかった。

人生というのはいつでもどこでも葛藤と戦いの場なのだ、と正道は思った。彼にとって問題なのは、自分がそれに耐えていけるかどうかということだった。将来仮に美術館や博物館のような職場に逃げ込んでみたとしても、そこでは小さいがゆえの、さらに大きな煩わしさが待っているに違いなかった。そのことは、自分が毎日接している学校や修道院の様子から見て容易に見当がつくように、正道には思われた。

(七)

進路をなおも決めかねていた正道をひとつの事件が襲った。ある日新聞を広げた彼の目は、一枚の図版に引きつけられた。自分に対し何か強く訴えかけてくる絵。それはレンブラントの自画像だった。記事は彼の回顧展がエルミタージュ美術館の協力の下に近く上野で開催されることを告げていた。

開会と同時に正道はその展覧会を見に行った。彼にとってそこから受けた衝撃は、事件としか言い様のないものだった。レンブラントの絵の中には、苦悩、歓喜、希望など人間のすべての感情が最も鮮やかなかたちで表わされていると彼は感じた。中でも彼を最も動かしたのは『ペテロの否認』だった。

ユダの裏切りによって自分が捕えられるであろうことを予感したイエスは、逮捕される前日、高弟ペテロに対し予言を与える。「汝、暁の鶏の啼くまでに三たび我を否まん」。ペテロは色をなしてこの言葉を否定する。しかしイエスが官憲の手にかかった後、イエスとの関係を追及された彼は一度、二度とイエスとは何のつながりもないと言う。そして遂に三たびイエスを否んだ時、遠くで夜明けを告げる鶏が啼いた。それを聞いたペテロはイエスが自らに語った予言を思い出して激しく泣いた。

レンブラントは、イエスのことを思わず否認してしまったペテロの、自らの言葉に驚き、放心したかのような表情を光と影のコントラストの中に描いていた。「ペテロの否認」はこの絵を見る前から、正道にとって聖書の中で最も印象的なエピソードのひとつだった。彼はその絵を見てあらためて、ペテロのような人がかくも弱い存在であるのなら自分は一体どのように生きていけばよいのか、と考えざるをえなかった。しかし彼はまた、イエスを否認した後のペテロの生き方にも惹きつけられた。ペテロは主を否定した悔恨を自らのエネルギーとするかのようにして伝道を続け、遂にはローマで殉教するに至る。自分にも自分自身を支えてくれる激しい悔恨がほしい、と正道は願った。

高校二年の最後、まもなく三年に入ろうという春休み、正道はひとりで北海道を旅してみることにした。この旅で自分の将来のことを最終的に決めることにしようと考えたのだった。旅に出た理由はもうひとつあって、入試中止の結果、一橋に行くことになった兄とはしばらく顔を合わせたくないという気持も、彼の中にはあった。

一人旅には父親も反対しなかった。父も、正道がその旅の中で何らかの結論を出そうとしていることを感じていたのだろう。驚くほど簡単に、母親に旅行費用を渡すように言ってくれた。

その旅で正道は初めてホテルを利用した。それまで一人旅の時はいつもユースホステルを使っていたのだが、今はもうその粘ついた雰囲気には耐えられない気がしたのだ。

人生は煩わしい。家族も社会も組織もすべてがそうだ。それなのに人間は皆、そうしたものを再生産していく。何という矛盾だろう。しかも人間には日々のパンを得ていかなければならないという重圧がある。中世の世捨人だって、自分自身の資産を持っていたから初めて出家できたのだ。人間、霞を食って生きていける訳ではない・・・。

旅の終わり、正道は渡島半島にあるトラピストの修道院を訪ねた。修道士たちが清貧と沈黙に明け暮れる場所はどんなところなのか、外からだけでも確かめておきたいと考えたのだ。

渡島当別の駅から雨上がりの道を正道はゆっくりと歩いていった。足元に気を取られていた彼がふっと視線を上げると、そこはもう煉瓦の修道院で、その真上に巨大な虹が懸っていた。自分は今、夢を見ているのだろうか、と彼は自分の目を疑った。その虹を見ながら、彼はこの天の橋の下には世の中の煩わしさと無縁の楽園が広がっているのだろうかと考えてみた。その答は明らかだった。

煩わしさのない人生などどこにもないのだ。それなら自分は人生を直視して、自分が主人公になって戦い続けてみよう。元々自分には失うべきものなど何ひとつないではないか。木田が言ったように、世の中のことを自分が当事者となって覗いてみるのも、また面白いことなのかもしれない。そうやってみてなお感じることがあったら、それはまたその時考えてみよう。消えかかっていく虹を見ながら、正道はそう思った。

 

カテゴリー: 創作『その年の冬』(1992年作) パーマリンク