Magis

私は学生に、近代のヨーロッパが世界を支配したのは、決して軍事力や経済力だけによるものではない、と話すことがある。近代の支配的な世界観を何よりも特徴づけてきたのは、「世界には、世界どこにでも通用する『モデル』が存在しうる」という考え方だったろう。そうした考え方は、世界をひとつの理論でカバーできるとしたマルクス主義において典型的だが、「世界をひとつの考え方でカバーできる」と考えた点においては、カトリックも共産主義と何ら異なるものではない。マルクス主義にせよカトリシスムにせよ、それらを特徴づけたのは「普遍」というものへの強い意志と確信だった。

そんなふうに考えるようになったきっかけは、ひとりのハンガリー人神父との出会いだった。

以前この欄に、「語源から単語を覚えたらどうか」と教室で学生に提案しているという話を書いた。そのやり方を教えてくれた人は、森鷗外先生の他にもうひとりいる。中学の時に英語を教わったハンガリー人の神父さんだった。英語、ドイツ語、フランス語、そしてもちろんラテン語にも通じた彼は、授業の中で事あるごとに語源について説明した。

学校はカトリック系だったので、「公教要理(catéchisme)」の授業は必修だった。私は従順でも出来の良い生徒でもなかったが、必修なので仕方なく毎週一回の授業に出席していた。

公教要理の教科書はエンデルレ書店から出ている、やたら翻訳調の本で、「創造主の実在は如何にして証明されるか」といった説明が、生硬な文章で並んでいた。夏休みには新約聖書の福音書を、どれでもいいからひとつ読んでくるようにという宿題が出された。マルコ伝がいちばん短いと聞いてそれを選んだ私は、いつしかイエスという類稀な「人格」に引きつけられていった。

公教要理の授業も担当していたハンガリー人の神父は、1956年、ソ連がハンガリーに侵攻した「ハンガリー動乱」を逃れて日本にやってきた人で、見事なまでの白髪は故国を脱出する時、一晩で真っ白になったという話だった。その髪を揺らしながら、ある時彼はこんなことを言った。

「君たち、Magisという言葉を知っていますか」

魔術?と聞こえたそのラテン語は、「キリストの栄光をたたえるために、自分はもっと何が出来るのか」という意味だった。説明を聞いた私には、彼がその言葉を、単に信仰に関してだけでなく使っているように思えてならなかった。彼は、自分の好奇心をもっともっと存分に発揮させて生きたいと語っているように感じられた。それは、「万巻の書を読み、万里の道を行く」といった生き方にも通じる人生観だったろうか。「君たちは本当に恵まれている。いくらだって勉強できるじゃないか」という言葉も、彼から何度も聞いたことがある。

昔も今も、カトリックは向学心の強い、しかし経済的には恵まれない若者たちを、人材の有力な供給源として成り立っている。そして彼等は強い使命感を持って、身につけた知識や信仰を世界に広めようとしてきた。

伝道者としての使命ということを意味する「召命」という言葉は、英語のcallingから来ている。主(しゅ)によって自分はその場所に召されているという考え方である。vocationという語も全く同じことだ。「使命」というmissionという言葉だって仏語のmettre、つまり自分が主(しゅ)によってそこに「置かれている」ということから来ている。

教師の語る言葉というのは時限爆弾のようなもので、その影響はずっと後になってから表に出てくるものなのかもしれない。ハンガリー人神父から聞いたいくつかの言葉は、その学校を離れてからよく思い出すようになった。

私は、我々日本人はこうした「普遍への意思」というものをどのくらい持っているのだろうか、と考える時もある。

 

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